東海道をゆく 桑名宿(益生)から庄野宿(加佐登)まで

この土曜日は2月末以来の東海道歩きであった。

2014年4月に歩き出してからもう5年の歳月が流れてしまった。1人旅なら1,2年でゴールしてしまうだろうが、最大で5人の友人達と歩いていると日程の調整がなかなかつかない。友人のひとりはゴルフの予定があったり、誰かが病気になり入院したり私も骨折したりと時ばかりが過ぎてしまった。今まででのべ21日、半日しか歩いていない日もあるので換算すれば17日半くらい歩いている勘定となり、本来なら京都に到着していなくてはならない。東京日本橋から京都三条大橋まで513キロ、「東海道中膝栗毛」の弥次喜多は12日で四日市まで歩いているのだ。
今日はゴルフ氏との二人旅、まずは近鉄名駅からひとつ南の益生駅、その近くの前回の終了地点から南へ南へ四日市を目指す。ヤマ場が少ない、川ばかりの旅路ではあったが天気もなんとか持って四日市から四日市あすなろう鉄道で4駅目の泊駅まで歩くことが出来た。近くの泊山には文化年間に四日市での公演中に客死した初代桂文治のお墓があり、何とか翌日参拝したいと思ったが、WEBにも詳細な情報が皆無で地元の芸能評論家の前田憲司先生に問い合わせさせていただきようやく判明、朝一でお参りすることとなった。夜はゴルフ氏が見つけていた「大衆酒場ゑびす」で一献、一献といっても日本酒ではなく四日市が地元の金宮のハイボールだ。それがグイグイいけるうえに、肴が豊富で誠に美味しくついつい飲み過ぎてしまった。刺身も上手いし、松坂牛のローストビーフ、芹おしたし、非常に立体的なゲソ天とどれも外れなしなのだ。

翌朝、チェックアウトし可愛い四日市あすなろう鉄道で泊駅まで行き、タクシーを呼んで泊山霊園の一角にある墓所へ向かった。入ってスグのわかりやすい場所にあった、それはそれは小さなお墓であった。お墓は小さくとも初代桂文治は偉大な噺家で、大坂で初めて寄席興行をした御仁だし、「崇徳院」「蛸芝居」「千早ふる」など今にも残る噺を作られたのもこの方でなのだ。なにより上方のみならず東京の桂の亭号の祖である。

さて、泊駅に戻って東海道散歩再開、約10分程で伊勢街道と分岐する日永追分に到着した。この地点の湧水を汲み喉を潤す。江戸から来た御伊勢参りの一行もここから分かれていったのだろうか。その後は国道1号線と一緒になったり離れたりする今日の東海道は昨日の川を次々に渡り住宅街をいく道より起伏があり緑多い心地好いコースであったが、まず難所として日本武尊が東征の帰りに杖をついて登ったという杖衝坂が待ち構える。坂の手前に昨日オープンしたばかりで我々が客第1号だという喫茶店があり、そこで英気を養う。喫茶店のお母さんはマラソンが趣味で去年は東京マラソンも完走されたと言われていた。杖衝坂は日本武尊が東征の帰りに杖をついて登ったとことからその名前になったそうだが、登ってみるとキツいもののそんなに長くもない坂だった。でも、ここでは芭蕉が落馬し「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と季語のない句をひねったり、そもそも日本武尊が杖をついて登った際に、「疲れて足が三重になったようだ」と言った事からナント三重の地名が生まれたという中々に由緒ある坂なのである。さて杖衝坂をふうふう言いながら登って、峠越えしたら石薬師宿に道は入り、ここは歌人佐々木信綱の出身地で至る所に短歌が書かれていた。風がまことに気持ち良い。石薬師にお詣りして道を更にくだり水田地帯を通り抜け、しばらく歩いてJR関西本線の加佐登駅に到着、ここから1キロ歩けば次の庄野宿だが本日はこれで終了。快速で名古屋に出て帰路についた。

あと亀山・関と過ぎれば鈴鹿峠を超えて近江国滋賀県となる。いよいよゴールの京都が見えてきた。