京都散歩2 博物館から建仁寺へ


その前にもう一度養源院についてしゃべらせてください。

前回もご紹介した、この下がっていく参道の美しいこと。
下がっていく、といえば京都では泉涌寺の山門からなだらかに下っていく伽藍の姿が美しく大好きなのです。
しかし、ここも捨てがたいなあ・・・

この養源院は豊臣家・徳川家双方に所縁の寺と申しましたが、そのつながりは浅井家が取り持っているのです。
そもそも、このお寺はあの淀君豊臣秀吉に亡き父浅井長政の菩提を弔いたいと建立したものなのです。
その後、焼失しましたが2代将軍徳川秀忠正室のお江の願いにより再建したのでした。そう、お江の方も浅井長政の娘なんですよね。
その際に伏見城の遺構を用い、関が原の合戦で落城時多くの武将が切腹した廊下を天井とし、合わせて弔ったのですが、
それが「血天井
お寺ではこの説明をやけにくわしくされます。確かに凄惨なもんですが、この養源院の凄さは日本において、このお寺にしかない俵屋宗達の絵画群なのです。宗達といえば1点あっただけでもたいしたものですよ。
それがごろごろあるんですよ。ごろごろ!!
下の写真は拝観料を渡した際にもらえる絵葉書です。

杉戸に直接描いた像ですね。この時代にはまだ像は空想の動物です。これが向かい合わせで1対あり、他に獅子2対、麒麟1対があります。
どうです、この像の迫力!! 画面からはみ出さんばかりに描かれたこの構成こそ宗達のものなんですね。
他にも金地の襖絵12枚も見事な構図でうなります。

ただ、順番に(特に血天井に力を入れて)説明されるので宗達の絵だけをジックリ見ることが出来ないのがタマにキズではありますな・・・


おっと、これで終わってはいかん。看板に偽りありだ。
まずは京都国立博物館から一歩踏み出しましょう。
博物館の周りの石垣は明治国家の威信をかけたように隙間なく造られておりました。


その北側の石垣といえば…


これは豊臣家の威信をかけた方広寺の石垣なんですよ。今はこの上に秀吉を祀った豊国神社と名残りのような方広寺があります。そこにあるのが有名な「国家安康」の銘のある鐘ですな。
今回は豊国神社にも方広寺にも立ち寄らずに神社前の広い道を左折、西へと進みました。振り返ると、ホラ、豊国神社の鳥居です。

鳥居の奥には立派な唐門がありますが・・・見えませんね。
スグに見えてくるのが「耳塚」です。秀吉の朝鮮出兵で首の代わりに耳や鼻をそぎ落として持ち帰ったものを埋めたと言われています。

もうひとつは方広寺の大仏の型(ミミ)を埋めたという説ですが、今は前者の方が圧倒的に支持されてますね。中学生の頃のガイドブックでは確か逆だったように思いますが・・・
お参りしてから、北への細い道に入って行こうとして、その入口にある小さなお寺に引っかかりを感じました。
その名も「烏(からす)寺」!!

門前の説明文を読んでみると、鎌倉時代初期にここを通りかかったお坊さんが松の上で2匹のカラスがしゃべっている声に足をとめました。
「今日は蓮生坊(熊谷直実の僧名)が死ぬようだ。どれお見送りに行くとするか」
びっくりして、蓮生坊の庵を訪ねてみたところ、同日同時刻に亡くなっていました。お坊さんはこの地に少なからぬ因縁を感じてお寺を建立したというのです。
烏寺・・・熊谷山専定寺
いやあ、京都の奥の深さを改めて感じましたねえ!!
その烏寺の角を曲がって北へ向かいます。
その道はこんな感じ・・・

どうです!? 雰囲気があるでしょう。
この続きはまた明日以降に♪