真田太平記を歩く

先週読了した池波正太郎著「獅子」の舞台である松代の郊外柴へ行ってきました。午後からの出発となりましたが、アルプスもよく見えて気持のよい1時間のドライブでした。

高速を長野で降り、松代方面へ左折しますが、高速下をくぐってスグに、松代方面とは逆の北方向へ左折します。長野電鉄屋代線の金井山駅を目的地と設定していましたが、駅前には広場さえなく、迷走の後、少し離れたコンビニに一声掛けて駐車させてもらいました。
そこは谷街道と呼ばれ、松代から須坂に向かう国道403号線の、大きく西側へ湾曲したあたりです。このあたりでは千曲川が大きく湾曲しているのにあわせて、国道も長野電鉄屋代線も大きく西へ湾曲しているのでした。
そこは、将に川中島古戦場のど真ん中であり、真田信之はそこに隠居所を構えたのでした。
明暦2(1656)年に隠居し、翌年にこの地に隠居所を置き、明暦4年(万治元年)にこの地で没し、遺言により、隠居所には真田林大鋒寺が建立されたのです。
国道403号線沿いの、ちょうど柴のバス停横に石柱がありました。

そこの道を入っていくと、赤い大屋根の大鋒寺がありました。道の突き当たりには頭でっかちの地蔵さんが出迎えてくれました。また、門前には六地蔵があり、その屋根には立派な龍が造られていましたよ。(下の写真  上左が見え出した大鋒寺の大屋根 上右が大きな地蔵 下左が六地蔵 下右がその屋根の龍です)




この本堂の右手奥に真田信之公の霊屋(たまや)がありました。
霊屋は書院の場所に建立され、その木材が再利用されたと言われています。 中には宝筺印搭があり、信之が進行していた阿弥陀三尊像と信之・二代信政の画像に、明治になって松代の御殿より移された、真田家中興の祖八代藩主幸貫(ゆきつら)の像が安置されているそうです。

霊屋の後ろはスグに千曲川の堤防でした。


隠居所は本当に千曲川のスグ横に造られたことに驚かされます。信之の最晩年は千曲川の流れを眺めつつの日々であったのでしょうか。
堤防を登ると、広々とした河川敷が広がっています。そう、こここそ川中島です。川を挟んで八幡平古戦場にある博物館の屋根が見えています。

少し、首を北に降ると、雄大な山とその向こうに尖った雪山が見えています。畑から出てきたおじさんに尋ねると、「あれは飯綱、むこうのとんがった山は槍ガ岳だ」と静かに語ってくれた。

この堤防上をほんの少し歩くと、今話題の人物「山本勘助」の墓がありました。柴村ではなく、堤防の内側にあるのが少々意外ですが、ボランティアのガイドによると、この墓はこの周辺を転々としているようでした。

「この墓石は明治ぐらいのものでしょ?」と訊いてみると、ガイドは待ってました!!とばかりにうれしそうに元文年間に出来たものだと胸をはりました。 調べると、元文は享保に続く年号で、西暦1740年前後ということになります。ひっきりなしに観光客が訪れていたのがおかしかったですよ。なにしろ、ちゃんとは観ていませんが、大河ドラマ風林火山」では勘助未だ信玄に仕官していないハズですからねえ・・・。
今から石畳をつくるとかで工事中なのも笑ってしまいました。こうして大河でとりあげられた人物の遺跡は立派になっていく訳ですな。(柴集落にも50m間隔で「風林火山」の旗がたてられていました。まるで占領地のようにね)
勘助の墓の上の堤からは上杉謙信が布陣した妻女山が遠望出来ました。(突き出た山の端が妻女山です。)

振り返ると大鋒寺の甍がみえました。なんともおだやかな景色です。



柴村を散策し、国道へと戻りました。国道を渡ると馬頭観音があり、少し歩くと小さな池がありました。これが金井池です。


大鋒寺の門前に木札があり、そこにはこんな話が書かれていました。
真田信之は忠臣鈴木右近を伴って、よく金井池に網を打ちに来たそうです。ある時、妙な物体をつりあげました。持って帰ったところ、この物体は夜になると台所にあらわれてお酒をうまそうに飲むのだそうです。しばりあげて信之に差し出すと、「酒代は私が出すから大切に育てなさい」と十二分のお酒を用意したそうです。これは忠臣鈴木右近をねぎらうための酒を用意したという逸話で、信之のやさしい心をあらわした話です。
なんとも脈絡のつながらない話ですが・・・この池に遊びにきていたことがわかり、最後に訪問した次第です。
私は、車のあるコンビニへと戻っていきました。








P.S. 大阪から梅の便りが来ました♪ もう春ですね・・・

伊丹市緑ヶ丘公園)


*[真田太平記]