■北国西街道シリーズ


先週末、刈谷原宿と会田宿を訪ねたことは、お話しましたが、実は土曜日に会田宿を訪ね、その翌日にひとつ手前の刈谷原宿と福寿草自生地を訪問していたのでした。
本日は、その「会田宿」の素晴らしさをご紹介したいと思います。

会田宿は、洗馬―郷原―村井―松本―岡田と続く北国西街道が始めて山をひとつ越えた刈谷原宿の次にあります。
刈谷原宿が刈谷原峠から下る道沿いにあるのに対して、会田宿は1,000mを越える立峠に向かって急勾配で登っていく道沿いにありました。

長野道を豊科で降りて、県道57号線から国道143号線に入り、四賀の矢室交差点を左折しました。調べると、「矢室」から5つ目のバス停「板場」で斜めに右折するルートが北国西街道のようです。
「板場」を右折するとスグに赤い大屋根が見えてきました。

「浄雲寺」です。

こじんまりとした集落にあって、この屋根は目立ちます。立派な山門もあり、本堂の前に立つと、あきらかに萱葺きの上からトタンを被せていることがわかりますが、この赤屋根も素敵ですよね。


しばらく北上すると、巨大な旧四賀村役場にして現松本市役所四賀支所の建物の前に「会田宿」の灯篭がありました。

なる程、ここからが会田宿か・・・と駐車して歩きだしたのですが、ここは会田宿の端の端だったのですね。結局ハーハーゼーゼーと息荒く往復するハメになってしまったのでした。(それも結構な距離を!!)

上の写真の通り、家々には屋号の電灯がつくようになっていて風情があります。この向こうの川は会田川で、犀川の支流です。
中々に立派な漆喰の家々が並び、感動しながら写真を撮り続けていました。

ほら立派な家でしょう!! でもね、ここがメインストリートじゃなかったんですよ。驚いたことにこの今は会田のメインストリートとなっている通りは「鍵の手」の一部でしかなく、下の写真の赤いポストのところから右折しているのでした。

いきなり急坂で少し驚きましたが、こんな素敵な蔵もあって私は癒されながらハーハーと登りだしたのです。


いずれ紹介しようと思う大正2年の石柱「安曇電気点燈記念」なんてものがあったりして喜んでいましたが、この道で果たしていいのか、またどこまでが会田宿なのかが不安になってきました。
不安を抱えつつ、さらに登っていきました。


道端で談笑していた叔父さんたちに声を掛けました。
「ここは会田宿ですよね。」
「そうよ、ここが会田宿!! 下の通りは違うよ」
とのこと・・・
「この先に無量寺や岩井の観音堂があるよ」
と教えていただき、礼を言って―では「岩井の観音堂」を目指そうと再び歩き出したのでした。

振り返ってみると、「うわあ・・・随分登ってきたなあ。(同じ道を帰るのかあ)」

道の両側に善光寺常夜燈がありました。昔は夕暮れになると旅人の為に灯をともしたのでしょう。安政2(1855)年に建てられています。もう、このあたりにはそれ程、民家はありません。

こんな感じです。もう宿場は終わったんじゃないかと思われますが、未だ「岩井の観音堂」はかけらも現れていません。
しばらく歩くと、立派な萱葺の門があらわれてきました!!


松沢家の長屋門です。こんな立派な門は余りお目に掛かったことはありません。松沢家は豪農だったのでしょう。


道端にはこんなかわいい道祖神もありました。右上は大きな松の根元にいろいろな碑がかたまってある処でした。小さな大黒様もありますね。左下の句碑もそこにあったもので、松尾芭蕉の一句が書かれていました。

身にしみて 大根からし 秋の風

あんまりいい句じゃないですよねえ・・・。辛味大根ぞばでも食べたのでしょうかね。ともかく、芭蕉は貞享5(1688)年にここを通って「更級紀行」を書いた訳です。「身にしみて」の句は、会田宿で読んだものなんでしょうね。この句碑はペリーが来航した頃、嘉永2年に建立されています。
街道は一旦、自動車道に入ってしまいましたがすぐに脇道として復活していました。そこの家々は寂れていて、それはそれで風情を感じさせるものでしたよ。

やがて、道は再び自動車道路入ってしまい、更に延々と登っていっているのでした。こりゃ、岩井の観音堂は無理だ・・・と、ここでこれ以上登っていくことを断念しました。

振り返ると、山々が夕暮れの美しい姿を見せてくれていました。
それにしても、よく登ってきたなあ・・・

ああ、やっと人家が増えてきました。今日はよく歩いたなあ・・・


この坂の上に戦国時代には会田氏の居城があったそうで、会田はその城下町としてスタートし、江戸時代になって宿場町として整備されたそうです。
「会田宿」・・・素敵な宿場でした♪