勝頼も近藤勇も拝んだ大善寺

勝沼ぶどう郷日射地獄篇 その2」でございます。

眺めるだけでは美しいブトウの丘も、ぶどうの為に降り注ぐ日差しが私達の上にも降り注ぐワケで・・・
(真ん中の丘の上の施設は「甲州市勝沼ぶどうの丘」というそのまんまの名前の公共施設で温泉あり宿泊OKワイン試飲し放題という結構なもんだそうです。)


見上げればいと大きい大善寺山門も、ここに戊辰戦争時の弾痕が残っていることなぞ、全く忘れていたワケで・・・
そう、この地は武田勝頼の地であると共に、近藤勇新選組の地でもあるワケなのでした!!!


この妙なハチマキした石像は旗がなけりゃあ、どこぞで蜂起したパルチザン自由民権運動の志士にしか見えません。もしや南米ボビリアの英雄か・・・いやいや大久保剛と名を変えた近藤勇その人なのです。
鳥羽伏見の戦いに敗れ海路、江戸に戻った新選組江戸城間近に屯所をあたえられたものの、1ヶ月余りしか経たない3月1日には「甲陽鎮武隊」として甲府に向けて出陣したのでした。

新政府軍の江戸城総攻撃前に危ない新選組を江戸から追い出したかった勝海舟が「甲府城をやるよ」とおだてたと言う説もございますが、名は勇ましき「甲陽鎮武隊」は出発したのであります。
途中、郷里日野にも凱旋?し、意気揚々と進軍したものの冬場の笹子峠越えは難航!脱落者も続出し、ようやく甲府盆地の東端に到着した4日には、すでに新政府軍は甲府に着陣してしまっていたから皆驚いた!!
甲府城主の夢はまた夢…「こりゃ困った」と言っている間に新政府軍は迫ってきて6日には衝突してしまったのです。

洋式化された新政府軍の前になす術もなく総崩れとなり敗走してしまいました。怪我のため鳥羽伏見の戦いには参戦していなかった近藤にとって人生初めての敗戦であり、新政府軍と新選組の力の差を思い知らされたことでしょう。

右の写真はこの古戦場に飾られていた錦絵ですが、大善寺の山門をバックに中央で咆哮しているのが近藤の姿です。おそらくこの絵をモデルに石像は造られたんでしょうが・・・ナゼにああいう石像となってしまったのでしょうか? 顔はこの錦絵よりも残されている写真を参考にしたんでしょうね。エラの張った感じは似ておりますな。

この戦いでは新政府軍側には死者ひとり出ず、甲陽鎮撫隊側にわずかな戦死者が出た程度の戦いだったのですが、鳥羽伏見の戦い以降は恭順の意向を示している徳川政府としては驚愕の事態であったんですね。まさか戦うことになろうとは・・・サスガの勝海舟にも予想外のことだったでしょう。(もちろん近藤勇にとっても思っていなかった事なのですが)
このあたりからは写真のように砲弾や鉄砲玉が掘り出されています。勝沼に住んでいた人々もさぞかしビックリしたことでしょうね。
時代は新選組が得意とした「剣」を置き去りにして進んでいったのです。

この戦いをしてしまった事も不利に働き、近藤勇はこのわずか2ヶ月後に新政府軍に捕らわれてしまうことになるのです。



いやあ、この公園も暑かった・・・
そこには江戸時代から甲州街道を往き来する旅人を見守る馬頭観音がひっそりと佇んで無言ながら往時を物語っているばかりでありました。








さて、地図のご紹介♪

地図の右下が柏尾古戦場です。そこから東へ勝沼宿を目指しましたが、その当りはまた今度にでも・・・ その辺りからナナメに走っている点線は我々の敗走路・・・(タクシーに乗車しました)