■真田太平記を歩く 松代堪能♪


一週間のご無沙汰でした。というのは「松代」のことです。先週日曜の日記は未だ真田探訪で終わっていますが、あれから真田街道を北上し、地蔵峠を越えて松代にたどり着いたのでした。もう真田宝物館は閉館間近で、笑顔で入館を拒否されてしまいました。それで本日の再訪となった訳です。(「松代城」を入れたら三度目ですよね。)
それにしても、家康により沼田から松代に移封された真田家は、山ひとつ越えれば真田の庄に行ける地を与えられていたのですよ。父昌幸と兄幸村が石田方につき、あろうことか幸村は大坂の陣で孤軍奮闘し、家康に死を予感させるまで迫ったのに、その兄伊豆守信之を徳川家は大事にしたんです。江戸時代、多くの大名家が移封改易された中、松代藩主真田家は幕末まで続いたのでした。
なんて、熱を帯びて書くのも帰ってきたばかりなんですが・・・ 昼前に出発し松代に直行しました。城横の駐車場に車を置き、3時間超に渡り、松代を歩き廻りました。
まずは笑顔で入館拒否された「真田宝物館」です。ここは広かったですね。それなりに内容は豊富でした。六文銭にあふれていて心地よかった・・・ 鎧兜に昌幸の和歌山九度山から信之に送った書状に感動しました。

次に宝物館裏手の真田邸へ向かいましたが、生憎と解体修理中で庭のみ覘かせてもらいました。

道一本はさんである文武学校は全く期待せずに行ったものの、グレートな場所でした。まるっきり江戸時代が残っているのです。柔術場・剣道場・弓道場等・・・予想外に必見の地でありました。




文武学校から小川沿いに歩いていくと、象山という小山の麓に出てきました。紅葉も終わりに近づいているとはいえ美しい風景でした。

この山は象が鼻を伸ばしたように松代に尾根が下りているところから象山と名付けられています。幕末の学者佐久間象山の象山はこの山からとったものです。山の麓に佐久間象山を祭った象山神社があります。
境内に吉田松陰を擁護したカドで蟄居していた際につかっていた高義亭が移築されていました。

象山神社から郊外の方へしばらく行くと象山地下壕があります。
それにしても、ここに太平洋戦争末期の最大の戦争遺跡が残っているとは・・・
実は松代観光のメインは松代城でもなく松代の街並でもなく、この幻の大本営地下壕となっているのです。遠く離れた駐車場から観光バスで来た人々が続々やってきます。
太平洋戦争末期、大本営・政府各省を極秘に移す目的で掘られた全長6キロにおよぶ地下壕です。

入口では学生達がボランティアのガイドの話に耳を傾けています。この地下壕にたくさんの強制連行された朝鮮人の方々が借り出され、ダイナマイト事故等、多くの人が亡くなられたそうです。文書が残っておらず、それが何人であったか不明ですが、日本人も含めて500人とも1000人とも言われています。
−そんなに多いものだろうか、とも思いましたが、人命が軽く考えられていた大戦末期ですからそれ程多くの人が落命したのも事実かもしれません。
しかし、こちらに政府機関が移る前に戦争は終わってしまったので、未使用のまま残されてしまいました。
(この近くには皇居の工事をしていた場所もあるそうですよ)
トンネルはとにかく掘り進んだというものでした。壁面は削岩機の跡が残り、足元も歩きにくいものでした。また中に進んでいっても思った程は広くありませんでした。ただ、延々と暗闇が続くのみです。歩いていて沖縄の海軍壕を思い出しましたが、あちらの方が実際に使用されていただけに整備されていたように思いました。

真田家の歴史探訪をしていたのに、突然タイムスリップして太平洋戦争末期に行ってしまいました。ここにも来てみたかったものの、やはり「重い」ものでした。地上に出て気を取り直して真田家歴史探訪を再スタートしました。
象山地下壕のすぐ近くには橋に赤い鳥居をつけた稲荷神社もありました。

街の中には観光客の姿はほとんどありません。しかし、至る所に歴史が息づいています。武家屋敷の門塀が続いています。


武家屋敷街を北に行くと寺町に出ました。この地方独特の大屋根が続いている風景は壮観です。右から願行寺・蓮乗寺・龍泉寺です。真ん中の蓮乗寺には佐久間象山の墓があるそうですよ。


寺町の北端にはこの松代で最大のお寺があります。この寺こそ真田家菩提寺である。曹洞宗真田山長国寺です。

甍をぐっと高くあげて六文銭が描かれています。感動のひとことです。

この長国寺には初代藩主真田信之の霊屋(おたまや)があります。案内を請うと、お寺の奥さんが真田家墓所の門を明けてくれました。

門の一部に付いている小さな戸に身をかがめて入っていくと、「本当はこの閂はずして入ってもらうのに・・・悪いわね」と言われて、「いやいやいいですよ」と笑顔で返すと「じゃあ、悪いけど出る時に鍵掛けてくれる?誰にでも頼めることじゃないけれど・・・」
「ははは、いいですよ」と請け負いました
重要文化財真田信之霊屋と4代信弘の霊屋が並んでおり、その後ろに真田家の墓所がありました。

信之の霊屋はさすがに立派で、装飾も安土桃山調の華麗さがある。以前、仙台で見た伊達政宗の霊屋にくらべれば幾分質素ではあるが、なかなかたいしたものである。

ところが、4代信弘の霊屋は装飾もほとんどなく質素なものであった。

ふたつの霊屋の後ろにある真田家墓所も立派なものであった。

全てが宝筐印搭という墓所も見たことがありません。宝筐印搭も均整のとれており造形美を感じられる。一番奥には鳥居がついた信之の墓、その正面には相対した形で・・・

真田幸村とその子大助の供養搭が建っていたのでした。合掌 (この供養搭は11代幸正氏が対照年に建立したものです。)

思っていた以上に立派なお寺である。紅葉もすさまじい程美しい。


本堂の後ろの開山堂は3代幸道の霊屋だった建物との解説が書いてありました。

真田家は代々「幸」の一字を用いてきました。 幸隆−昌幸−信幸 と本来、信之は信幸だったのですが、昌幸・幸村親子が石田方についたこともあり、信の字に改めていたのです。この3代から「幸」の字を使いだしています。
さあ、長国寺を後にして、終着点の松代城を目指します。松代藩筆頭家老矢沢家の門や名家小山田家等の前を通り、鐘楼に出てきました。

最近のものかなと思いながら看板を読むと、大火で何度も焼失したものの、1801年に建設したものがこの鐘楼で、ここで佐久間象山が電信の実験をしたというから驚きました。日本科学史上なくてはならない建造物ではありませんか!! なのにあんまり有名じゃないのがびっくり、そのまん前に斎場を作っているのにも二度びっくりでした。
藩医横田家住宅がこれまた素晴らしかった。

なんとも美しい萱葺きの住宅で、重要文化財に指定されている。この上田家からは明治になって最高裁判所長官が2人、鉄道大臣が1人出ているというから驚きである。
庭の眺めも美しい・・・。

ようやく、駐車場に戻ってきた。残すは松代城のみであります。

三度目にして、ようやく城門を通ることが出来ました♪ 城内に碑があったのでよく見てみると・・・

海津城跡とありました。そうなんですね。この松代城の前身は、武田信玄川中島の戦いに備えて造った海津城だったのですね。武田家臣団の中より頭角を現した真田家がこの城に入ることになるとは奇遇ですなあ・・・。

堀に囲まれ、土塁と石垣を併用した平城です。建造物は復元された城門や櫓のみですが、興味つきないものがあります。
いやあ、歩き回って疲れたけれど、ブログにアップするのも疲れたなあ・・・
そこで、松代北方、山の上にある大室温泉まきばの湯で疲れを癒して帰路につきました。


これにて松代篇全巻の終わりでございます。