長岡だより 2

今日は早朝目が覚め、朝焼けを見ながら仕度を済ませ、5時には外出し、長岡駅周辺を散策しました。


朝焼けの下、カラスが活動していました。松本ではハシボソカラスでしたが、ここ長岡では東京と同じくハシブトカラスでしたね。
宿泊先のホテルから駅前の大通りに出て、すぐの交差点に「米百俵」の碑がありました。明治維新後、禄高を大きく削られ困窮する長岡に長岡藩の支藩三根山藩より米百俵がおくられてきました。水粥をすすっていた藩士達はやっと白飯が食えると大喜びをしたのですが、時の家老小林虎三郎が「米は食べてしまえばスグになくなる。これをお金に替えて学校を建てる資金にすべきだ」と藩士達を説得したという話です。

戦前は「贅沢は敵だ」というスローガンのもとに、この「米百俵」という逸話も「だから我慢すべきなのだ」という道徳教材として用いられ有名な話だったのですが、最近は小泉前首相が演説に引用し、一躍有名になりました。
仕事で行っていたハイブ長岡にもその群像碑がありましたよ。


(右で手をあげているのが小林虎三郎です。)

大通りを渡り、北の方にしばらく入っていくと小さな木造家屋が見えてきました。


これが連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を実施した元帥山本五十六の生家高野家です。長岡は空襲にあい、焼け野原になってしまい、この建物は戦後復元されたものです。それにしても小さいものでビックリしました。

生家は山本五十六記念公園の一角にありました。これが公園側から見た生家です。

窓や戸口にある鍵手状のものは何でしょうか? 今はともかく昔は豪雪地帯でしたから、雪囲いをつけたのかもしれませんね。
公園には山本五十六の胸像がありました。

なかなかよく似た胸像ではないでしょうか。もともとこの胸像は霞ヶ浦航空隊にあったものを進駐軍から守るために湖底に沈めていたもののようです。
胸像をじっくりと見学してから、公園を出ました。その1本北の通りには山本五十六記念館がありました。ブーゲンビルで撃墜された司令長官機の翼が展示されているとのことですが、当然の如く閉まっていました。(まだ朝の6時前ですからね!)

ここから大通りを越えたところに戊辰戦争の英雄河井継之助の邸宅跡があり、そこには河井継之助記念館がありました。(もちろん閉館中!!)

ただ、この後ろ側には河井邸の庭園が残っていました。

ここ、長岡に来てわかったことですが、(ホテルにあったパンフレット等を読むと)この長岡藩は江戸時代を通して譜代大名牧野氏の領地だったのです。牧野氏は三河出身で、もともとは松平氏と対立する豪族だったのですが、家康の代で家臣になっています。
明治維新時、幕府方を一方的に賊軍扱いにした官軍に対して、三河以来徳川家に従い、譜代大名として栄えてきた長岡藩としては恭順する訳にはいかず、時の家老河井継之助は中立の立場をとろうと画策します。しかし、その夢も破れ「鳥羽伏見の戦い」以降最大の激戦を繰り広げることになってしまうのでした。
面白い事に長岡では「官軍」のことを「西軍」と呼んでいます。長岡からすれば、「官軍」とは呼ぶことが出来ないのでしょうね。長岡勢を中心とした奥羽越列藩同盟軍に連敗を喫した「西軍」は一気に増水した信濃川を押し渡り、長岡城を陥落させてしまいます。

なんとしても、長岡城を奪いかえしたい長岡軍は北に広がる沼地帯を横断し奇襲を掛けて再び城を奪い返すのですが、4日後には再び陥落してしまったのでした。また、長岡城奪取作戦時に河井継之助は敵の銃弾に足を射抜かれ重症となってしまいます。
会津へと転戦する途中で落命していまうことになるのでした。

司馬遼太郎の「峠」で一躍幕末ヒーローとなった継之助・・・また「峠」を読んでみたいという気になってしましたよ。
長岡は会津と共に幕府方の中心拠点でした。そういうこともあって、明治維新後は冷遇されてきたようです。なにしろ、JR長岡駅が長岡城本丸跡にあること自体が驚きです。(ホテル近くの公園に二の丸跡の石碑がありました。)


しばらく歩いていると前方の歩道が何者かに覆われています。

驚いたことには鳩の大群でした。家の人がお米でも撒いたのでしょうね。それにしても驚きました!!



6時前にはホテルに戻りシャワーを浴びてから一休みし、仕事にそなえたのでした。(本当ですよ)