長岡拾遺

8月の終わりに長岡へ行っていましたが、その際の話で書ききれなかったものをご紹介します。


長岡駅のホームに立ち新幹線を眺めている。文明の利器、その最先端のひとつといっていい、この新幹線が行き来するホームの下に戊辰戦争時に薩摩・長州軍に鋭く対峙した牧野家の本城長岡城が眠っている。
明治新政府にとって会津と並んで、もっともてこずらされた奥羽越列藩同盟の急先鋒だったとしても、その人々の心の象徴でもある城跡に鉄道を敷き、こともあろうに、その本丸に駅舎を構えるとは、恐れ入るというほかない。

宿泊したホテルに隣接する公園に長岡城二の丸跡の石碑があった。いま、城をしのぶものはこの石碑しかないようである。秋の虫が悲しく鳴く中に、ただ、シンとして石碑があるのみである。

長岡藩は江戸開府以降、親藩大名牧野氏の居城であり、もとから幕府が日本海側に打った楔であったのだろう。その牧野長岡藩が優柔不断、もしくは身変わり早く薩摩・長州軍側についた多くの親藩譜代大名と違って徹底抗戦をしたのは、やはり家老河井継之介の存在が大きい。彼は薩摩・長州軍と幕府の間で中立国になる道を画策したが、それもかなわず薩摩・長州軍との戦いに進んでいった。

仕事が終了してから日没までのわずかな間にその戦跡を2箇所訪ねた。私達は南北に流れる信濃川の西岸から、長岡大橋を渡った。この橋の南側を薩摩・長州軍は強行渡河し、長岡城を急襲、陥落せしめたのだった。その城の方には向かわず、北長岡駅の南で線路を横切り、栖吉川という小さな川を渡ると新保という地区に出た。このあたりが、その一旦陥落した長岡城奪還作戦で、河井率いる長岡藩軍が泥沼地を縦断しつつ戦った、八丁沖古戦場である。散在する民家の間に不動明王が守る小さな記念公園があった。


ひとりの男の子が何をするでもなく石にまとわりついて遊んでいたが、その向こうは一面の水田であった。明治以降、その泥地を苦労して水田に生まれ変わらせたのも、ここで戦った人々をリスペクトする人々だったのであろうことは想像にかたくない。
長岡藩は、この戦いが効して長岡城を一時的に奪還することが出来たのだった。

この「八丁沖古戦場」が早々に見つかったことに気をよくした私はもう一箇所も是非行きたいと言い出して相棒を困らせた。
ところが、そのもう一箇所の「大黒古戦場」はその近くにあると思われるにもかかわらず、田んぼの中の道を何度となく、ぐるぐる走りまわっても見つからなかった。半ば呆然としつつ、出会った男性に「オオグロコセンジョウはどこでしょうか?」と訊ねたところ、「オオグロ? ナンダそりゃ」と素っ気なき態度に驚かされ、手にした資料を見せると、「ああ、こりゃダイコクだわ。ダイコクというのはアッチの方だが・・・」となんとか手がかりを得ることが出来たのだった。


「大黒戊辰戦跡記念パーク」と名前は大仰だが、それはこんな小さな敷地に、まるで辺りから隠すように松を繁らせた公園だった。
この辺り一体が長岡・会津米沢藩兵らの奥羽列藩同盟軍と薩摩長州軍とが度々戦った激戦地の跡だという。ここも、なんだかボウボウと草の生えた、村の片隅であり、やはりその向こうには延々と続く水田が広がっていた。

この公園には山本五十六が海軍中将時代にしたためた書による記念碑が建立されていた。そこにはただ、「戊辰戦役記念碑」と書かれているのみである。
長岡の子であり、会津より嫁を迎えた五十六としてはいかなる思いでこの一文を書いたのであろうか。
今や、140年前となった戊辰戦争に、そして60年以上前となった五十六存命時に思いを馳せているうちにも、時は過ぎ行き、夕闇が濃くなりつつあった。
帰ろうとして、ふと見上げると、飛行機がくっきりとした飛行機雲をひいて飛んでいた。

−明日は雨だろうか・・・