久我山の桜 金玉均の碑

先週の日曜にぶらりと久我山神田川桜見物に出掛けた話は先日書きましたが、その神田川に向かう手前に久我山稲荷という神社がございます。
自宅から5分くらい歩けば行けますかね。

境内の裏から入る感じです。シダレ桜が満開でした。ここは高台で、境内の下から見上げると小山のよう・・・久我山という地名のおこりもこの当りなのでしょうか。

その境内にひとつの石碑がありました。
「同心碑」とあります。
久我山村に生まれ、幼くして小笠原へ渡り「砂糖王」となった飯田作右衛門が遠く離れて暮らす父に朝夕つかえることが出来ずに心苦しみ、せめて父の暮らす久我山に自分の親不孝を詫びるの石碑を建ててくれと頼み、その思いに打たれた金玉均がこの碑の文を書いたそうです。

 

金玉均? 
日本でも「金」と「玉」という漢字は高貴な漢字ですよね。ただ並ぶと少し困りますが・・・  「均」という名前ではありませんよ。「玉均」が名前で姓が「金」
そう、この方は朝鮮半島李朝時代末期の政治家です。「キムオツキユン」と読みます。
外交交渉で来日した際に福澤諭吉のもと慶應義塾で学び、帰国後革命に失敗して日本に亡命してきました。
日本では東京、札幌と転々とし、小笠原に滞在(なかば幽閉状態だったとの話もありますが…)していたこともあり、そこで飯田作右衛門と親しくなったようです。金自身も遠い故郷の親の身を思い起稿したことでしょう。
その後、彼は上海に渡るのですが、そこで敵側の刺客に襲われ落命してしまいます。享年43歳。
遺骸は朝鮮に運ばれたあげくバラバラにされ、それぞれの部位が遠く離れた地て、曝されたというから凄まじいですよね。
その敵側のトップこそ、後に日本が暗殺にかかわる閔妃なのでした。

この碑があることは以前から知っていたのですが、丁度「韓国現代史」に関する本を読了したばかりなので、この「金玉均」に関してもどういう人物であるかわかっていたので境内散策中にこの碑を再見して驚いた次第です。
歴史は身近に息をひそめているもんですね。

折角なので金玉均についてももう少し詳しく調べたいなあ、と思っています。

神社裏門から来し方を振り返ると・・・

中央に小さいながら大きな樹が遠望出来ますよね。その下に私は住んでおるわけです。

裏より入り表より出る・・・鳥居をくぐり石段をくだって交差点を抜け、振り返ると久我山稲荷の山は桜に覆われておりました。

ネットで久我山稲荷のことを調べていると、先週だかに訪ねた板橋の新選組局長近藤勇墓所と関連する記述をみつけました。
打ち捨てられ埋められた遺骸(首は京に運ばれました。)を近親者達が掘り起こし三鷹の龍源寺に運ぶ途中に、この久我山稲荷の下で休憩したという言い伝えがあるそうです。人見街道から久我山稲荷の方に入ったところに、馬の水のみ場があったそうな・・・あと少しで三鷹、ここまで来ればひと安心だ、と一息ついたのでしょうね。

さあ、ここから神田川はスグですよ。前回アップしたように満開の桜のもと人々は笑顔でした♪