天神橋界隈2 天満河岸へ

先日は天満天神繁昌亭から天神橋を渡り、旧大林組本社ビルを過ぎて川岸に下りてきたところまででした。
そこからの眺めより再スタートです。

水上バスが味気なき高速の高架下を通過していくと前方に中之島のシンボル中央公会堂が見えてきました。

美しいですよね。懸賞付きコンテストで選ばれた設計案を基に、あの巨匠辰野金吾他が設計した、今や大阪が誇る重要文化財です。(1918年(大正7)年竣工)。有名な話ですが建設資金をだしたのは大阪の相場師岩本栄之助!! しかしながら彼は相場の失敗により竣工をまたずピストル自殺してしまったんですね。
公会堂の手前にある橋が「難波橋」。橋のたもとにライオン像があることから市民には「ライオン橋」と親しまれてきました。この橋も1915(大正4)年の完成ですな。
振り返ると、先程渡ってきた天神橋が威容を誇っております。


この天神橋は1934(昭和9)年と「難波橋」よりはやや新しいものの、もう70年はたっているんですね。橋のたもとに戻ってくると、オジさんが石造物を眺めていました。
皇紀2600年記念の国旗掲揚台ですかね。ポールがあった部分からは樹木がはえているところが、時代の流れを感じさせて面白いな♪ 1940(昭和15)年は神武天皇の建国より2600年目ということで、国を挙げての大騒ぎがありました。長引く日中戦争等の閉塞感が覆っていた当時は格好の息抜き(為政者から言えば「ガス抜き」)になったのでした。大阪でも東京でも、その他各地を歩いていても皇紀2600年関連の記念碑は多く目にします。頭に奉祝と書かれたものも多いですね。もう70年近く前の出来事ですが、そのメモリアルは我々のすぐ近くで今もいき続けているのです。

さて、橋を渡って天満へと戻ります。今度は橋の西側を歩きました。
中之島の本当の東端である「剣崎」(と言ったと記憶していますが・・・)が見えてます。向う岸の緑のあたりが、その昔の青物市場跡です。

魚の卸市場である「雑魚場(ざこば)」と、この河岸にあった青物市場が大阪の台所を預かっていたのです。公園の中に青物市場跡の碑と天満の子守唄の碑がありました。

 


ねんねころいち 天満の市よ 大根(だいこ)そろえて船に積む 船に積んだらどこまでいきゃる  木津や難波の橋の下 橋の下にはカモメがいやる カモメとりたや 竹欲しや 竹が欲しけりゃ 竹やへござれ 竹はゆらゆら由良之助♪

この公園には対岸に京と大坂を行き来した三十石船(さんじゅっこくぶね)の八軒家船着場があることから、その舟歌碑もありましたが、それはまた別の機会に紹介致しましょう。

さて、公園を後にして、天満天神繁昌亭へと急ぎます。その途中で上等カレーを食べたのですがね・・・
街中には、古風な元商家も残っていました。

黒造りの構えがいいですねえ・・・今は商売をされていないようですが古い商家であることは間違いないようです。このあたりのお家で、玄関前の大きな植木が倒れたうえに植木鉢が割れていたのでピンポン押してお知らせしました。
ピンポン♪
「どちらさん?」
「通りがかりの者ですがねえ・・・」
「忙しいので結構です!!」
何がやねん!!
「ちゃいます、ちゃいます。玄関先の植木が倒れて、植木鉢割れてますよ」
「ああ、そうですか」

なんとも素っ気無い会話ですが、まあそんなモンでしょうなあ・・・  間もなく天一商店街、カレー屋さんがあった通りに出るというところで、これまた古風なビルディングに出くわしました。


関東大震災がおこった1923(大正12)年に建てられたビルです。名前は「フジワラビル」。当初は食品会社の本社ビルとして使われていたようですが、今はギャラリーとして注目を集めているようです。また一度ジックリ拝見したいものです。入口部分の彫刻「メダリスク」も素敵ですよね。*1

道を曲がれば天一商店街・・・これで散歩は終わりです。カレーを食べて落語を聴いての後、天満から梅田まで歩いた話はまた今度♪





*1 ここは桂しん吉さんが時々開いているフジワラ亭の場所でもあったのでした。