sampodow2006-09-23


今日は久しぶりに出勤しなくてよい土曜日です。
さあ、どこに出掛けようか・・・と思いつつ、ウトウトとしている間にお昼となり夕方となってしまいました。
もう秋分の日か・・・などと思いつつ、一冊の新書を読了しました。
佐原 真・田中 豕共著「考古学の散歩道」(岩波新書 1993年)−題の「考古知新」とは、前口上に出てくる言葉で、腰帯にも「考古知新」-知的刺激に満ちた待望のエッセイ集! とあります。
出版当時、確かベストセラーになったかと思いますが、私は買ったものの未だ読んでいませんでした。もう13年も前の本ながら、そうだったのか、と驚かされたり、成る程と納得される話が多く「もっとはやく読んでおくべきだった」と悔やまれました。田中先生はご存命かもしれませんが、TVで時々お見かけし、飄々として味のあった佐原先生はとうに冥界へ旅立たれています。合掌。
本の題名の散歩道の通り、10ページぐらいの短編エッセイが19ありとても読みやすい。
「共同器」と「銘々器」の話しなど面白い。日本人はお箸・ご飯茶碗・湯呑茶碗などを個人を特定した「器」としている民族であるが、これは決して国際的には当たり前のことではなく、留学生が日本の家庭にホームスティして、「これがあなたのお箸と茶碗」と渡されると「なんのこと?」と少なからずカルチャーショックを受けるそうだ。アジアでも中国にはそういった「属人器」はなく、その影響を受けて沖縄にもないという。ヨーロッパではオランダのナプキン・リングが属人器らしい。これらを考古学的に遡っていくのだ。
私の生まれ育った大阪では人が亡くなると、出棺の際に家の前で生前使用していた飯茶碗を叩き割っていたが、この風習が韓国と西日本だけにあるという記述にも驚かされた。
また、農耕が始まると共に、水田にコイ・フナ・ナマズ・ドジョウなどの淡水魚が産卵のために遡上し新しい漁が始まった、という記述には、カンボジアなどで今でもそういった漁をタンパク源として暮らしている人々がおり、日本の援助によりもたらされた農薬が、その環境自体を壊しつつあるという問題を思いださせてくれた。
コーヒーゼリーを胸にころがす男はこういう事も考えつつ生きているのであった。