「川端康成の眼力」は我をして川中島に向かわせた!!

sampodow2006-09-24

昨日の休養で、体力気力ともに回復し、今日は外出することとした。(とは言っても、出掛けたのは昼をまわってからとなったのだが・・・)
松本ICより北上、長野ICより長野へ向かった。インターを下りて右折したが、左折すれば松代!! この地名を聞くだけで、私のアドレナリンが踊りだすのだ。以前、池波正太郎真田太平記」を愛読した私にとって、その主人公のひとり真田真之(後に信之)が治世した地であり、幕末動乱に知のリーダーとして登場した佐久間象山の地であり、太平洋戦争末期、大本営を移そうと大地下壕をつくった地である。しかし私は右折したのだ!!
今日は長野県信濃美術館へ特別展「川端康成の眼力東山魁夷との知られざる交遊」を見るために北上したのだ。川端康成といえば眼である。(おそらく日本人で最も宇宙人に近いギョロ目ではないか)あの目に睨まれたら身がすくむことであろう。
この作家は骨董コレクターであり、国宝「十便十宜図」(与謝蕪村池大雅の競作)を所蔵していることは前から知っていた。今回の私の目玉は古賀春江だ。日本のシュールレアリズムの画家ながら寡作であり、回顧展等もなく見たくとも余りお目にかからない画家である。ただ、川端が古賀と親交があり、古賀の作品を所蔵していることを知っており、今回その作品が展示してあるとの情報を入手、参上した次第である。
しかし、松代の地名を目にし、川中島古戦場とおぼしき千曲川を渡ると私のアドレナリンは躍動し続けていた、そこに八幡原史跡公園の看板が目に飛び込んできたのだ!! 私は躊躇なくハンドルをきり、駐車場に飛び込んだのだった。目の前に屹立する銅像があった。おっ、信玄かと思ったがどうもそれらしくないのだ。近づいてみるとナント象山先生だった!! グツグツ(アドレナリンの沸く音)


芝生のよく刈りこまれた公園をつっきり、千曲川沿いに出た。(妙に興奮しており、掲示されていた地図を確認することなく歩き回っていたのだった。)
堤のうえからは周囲の山々を見渡すことが出来た。堤の中にある稲田は雀除けの黒いビニールを軍旗のようにはためかせている。


堤を下りて、博物館の前庭を横切りつつ、はて八幡原史跡とは何ぞや、と頭に?マークを浮かべていると遠方に白地に「毘」の、まごうかたなき謙信の軍旗が飛び込んできて足を速めた。グツグツグツ!!
おお、ここぞ「三太刀七太刀の跡」そう、信玄本陣に謙信が単騎斬り込んできたアノ場所だったのだ!!グググ、グツグツグツ、ピー (沸点に達しました。)
この一騎打ちは伝説であると言われている、おそらくはなかったのであろう。しかしながら、400年に渡り語り継がれてきた物語としては真実であり、もはや現実に起こった史実と物語は同一の重量をもって我々の胸にせまってくるのだ。

興奮から静まると、来年の大河ドラマが信玄の軍師であり、その実在を疑問視されている山本勘助であることを思いおこし、来年の喧騒−大量の風林火山の旗に囲まれワンサカと人のあふれる光景を考え、ウンザリさせられた。
しかし、今はこの程度の人出だ。

さあ、落ち着いて「川端康成」に向かおう。
長野市内を通過し、善光寺を北にまわって長野県信濃美術館に到着した。
少々の誤解から(これは私につきものだが)東山魁夷分室から入ってしまった。しかしこれがよかった。「眼力」を見てから「魁夷の全容」にふれるよりは、その逆の方が都合よかった訳だ。
この美術館はよかった。落ち着いており、絵の数も控えめで、心地よく時をすごせた。唐招提寺の障壁画や、京洛四季の連作は何度でも見たいと思わせるものだ。TOPの写真はこの分室の内部より外を眺めた景色だが、最近はやりと言うものの、浅い水にさざなみがゆれる姿は美しかった。
さて、「眼力」であるが、これは誠によかった。後日、詳細に語るとしても、古賀春江の絵を6点見ることが出来たのはまさしく眼福と言える。他には川端の書や、所蔵の水滴(特に白磁の老亀)等がよかった。
本館を出ると、まだ陽も高く、隣の善光寺にも足をのばした。
善光寺は長野県信濃美術館の西側に位置していた。噴水のあるまるい池を回って四つ角に出ると、突然、善光寺はその横っ腹を現し、私をあわてさせた。やはり、山門をくぐり真正面から御対面させていただこう、などと思っていたから私は少々うろたえつつ写真を撮ったのだった。

正面にまわると、映像で見慣れた本堂が現れ、安心してお参りし、話しに聞く「お戒壇めぐり」をしてきた。現代人は暗闇に弱いですよね。「ここでフラッシュ光らせて写真を撮る不届き者はいないのか」などと思いつつ、ちゃんと「極楽の錠前」を触ってきましたよ。一番こわかったのは最後の角をまわった途端、前方に明かりがあるものの、今まであれ程つかえていた人々がひとりもおらず、うろたえて小走りに駆けた時ですかね。
宝永4年(1707)、人々が赤穂浪士を同時代のヒーローと感じていた時分にこの本堂は建立された。横から見た印象と前からの姿はまるで違う。いや違いすぎる。これは意図されたこととしか思えない。

この姿、また空間は東大寺大仏殿に似ていると思った。広大な空間を中央の巨大な装置が制御しているような「意匠」は同じものだ。そこで、昔のことだが、東大寺大仏殿を眺めていると、どこから来た若造が、彼女に向かって「全然ダメだね。やはりタージマハールの迫力にはかなわないよ」とのたまわっているのを聞き、「タージマハールと一緒にすんな!」とひとり怒ったことを思い出した。
東大寺大仏殿にはかなわないよ」とは思わない。建築としてはコチラの方が上手(うわて)ではないだろうか。
こんなところも・・・

ディテールがきれいですよね。ただ、後ろに周ると、設計者が手を抜いたのか、ただ巨大なだけの、現代よくある信徒会館ぽく見えるのでした。

さあ、お決まりの温泉である。近くに名湯はないものかと捜すと、割りと近くに「長野裾花峡温泉 元湯うるおい館」があった。これがまたよかった。長野ではまだ見かけたことのない茶色の湯で、カルシウウムを多く含んでいて循環に適さないことから完全掛け流し!! また来たい温泉となった。

松本平を制覇せぬまま、休みの度に長躯(といっても高速で1時間ではあるが}長野平に侵入するのもどうかと思って自重してきたが、これからどんどん長野平に侵入させていただきます!! 待ってろ長野!!(って、どういうノリ?)
いやあ、いい1日であったが、帰りに行きがけの駄賃とばかりに松代に侵攻、真田家代々が治めた松代城に乗り込んだ。残念ながら閉門後であったが、その歴史の香りに酔い、再来を期したのだった。

夕闇につつまれる景色も味がありますねえ・・・ そろそろ「真田太平記」再読するかなあ。