東海道品川宿 釜屋跡にひとり立つ

風邪はなかなか治らぬうちに薬もなくなりました。
もう一度、○○クリニックへ行き、仙人様のお顔を拝む気にもなれず、ホームドクターとしている品川の医者へと車を走らせました。
品川は青物横丁にその医者はあります。なんでそんなに遠い処に通うかと言えば、松本の時にかかっていたお医者さんが東京ではこの医者に限る!!と太鼓判を押して推薦してくれたからなんです・・・そして、なんとなく両者は似た風のお医者さんなのでした。
それにしても品川は遠い!!
初めて車で行き、首都高の予想通りながらの渋滞にも遭い、12時半までの診療時間なのに、到着したのは12時50分になってしまいましたが、我がホームドクターは快く診療してくれました。
以前もこの医者へ行った帰りに少しだけ東海道を歩き、犬や亀の写真を報告したことがありましたが、今回はその医者の裏通りのパーキングに駐車しましたが、その裏通りこそが東海道だったので薬を待つ間にしばし100mほど散策しました。(最近は医師法改正かなんかで医薬分業となり、ややこしい話ですなあ・・・ )
いやあ、この100mでも見所満載で驚きました。
まずスグ近くにあったのが品川寺です。

 

品川寺の門前には大きな地蔵坐像がありました。宝永5年(1708)年に江戸六地蔵第1番として建立されたそうです。高さは2.75m。これは幕府ではなく民間からの発願によるもの・・・元禄を過ぎ、赤穂浪士の討ち入りも終わって間もなくの、江戸の文化が花咲かそうという時代に、民衆もそれだけ余裕が出てきたということでしょうか。この品川寺を第1番とし、第2番が新宿の太宗寺、第3番が巣鴨の真性寺、第4番浅草東禅寺、第5番深川霊巌寺、第6番同じく深川は門前仲町の永代寺と続きます。大きく江戸を囲む形で地蔵菩薩を配置したんですねえ。ホントに民意だけで出来たのでしょうか? 少し疑問が残ります。
私はこの地蔵菩薩坐像より、門前の宝筐印搭に興味を持ちました。宝筐印搭も日本独自の形をした供養搭ですが、ここのそれはむしろ大分県に多くある国東搭に似たものでした。そしてその搭をささえる亀が面白い!!

なんとも立派な造形ですね。石工の技術の高さが感じられます。境内はがらんとしていてなんとも謎めいた雰囲気のお寺でしたが、門を入ってすぐに大きな銀杏が聳えておりました。樹齢600年というから驚かされます。その根元には庚申さんが置かれていました。(ただ、3サル達とにわとりだけでしたが)

 

門前には古い民家も残っており、本日はデジタルカメラを忘れたために携帯電話でパシャリパシャリと撮影していました。

 

私は右側の写真でクロネコのワゴン車が停まっているあたりから、品川寺を眺めていたのですが、ふと足元を見てホントにびっくりしました!!

なんと、そこには新選組副長土方歳三の写真があったのです。そう、ここはアノ「釜屋」の跡だったのです。「釜屋」はお茶屋兼旅籠のような店で、新選組御用達の店でありました。江戸より京都に戻る途中の土方一行がここで食事をしたという記録も残っていますし、また、鳥羽伏見の戦いに敗れ、品川へと戻った際にもしばらく滞在した処です。という事は、土方達も、この向いにある品川寺の境内を散策しただろうし、地蔵菩薩に江戸への途中に亡くなった山崎烝の冥福を祈ったりしたことでしょう。その姿を、この大銀杏は眺めていたことになる訳です。成る程ねえ、と何が成る程かわからないが感心しつつ薬局へと戻った次第です。

薬局では名前を入力ミスしていました。つい指摘したばかりに更に待たされるハメになってしまいました・・・苦笑


追記:釜屋についてWEBで調べていたら、生麦事件の直前に島津久光がこの釜屋で休憩していたことがわかりました。上の文章では釜屋の事をお茶屋兼旅籠と書きましたが、そんな処でこんな大名級の人が休憩しますかね?