六本木・麻布2 

さて、前回は麻布一ノ橋を渡って少し行ってから右折し、時計回りに一ノ橋の一本下流にあった橋から首都高をくぐった処まででした。麻布十番2丁目と3丁目の境界線の道を西に直進するとT字路につきあたりますが、その向こう側は思いっきりの高台です。その高台が元麻布。

 
上の2枚の写真は麻布十番3丁目にあったモダンなビルと、元麻布の高台を回り込もうとしている時のものですね。

一番下の地図を見ていただきたい。右下に大きくある麻布十番という地下鉄の駅名を時計回りに廻ってますよね。T字路に突き当たって北方向に直角に曲がっているでしょ。そこから、また左(西)折すると上り坂で、ここが大黒坂・・・その途中に賢崇寺の長くなだらかな参道がありました。

元麻布の曹洞宗賢崇寺は佐賀鍋島藩主の菩提寺です。ゆっくりと上がっていく長い参道は美しいものでした。ちょうど、夕刊配達の方が気合入れてお寺へ向かっているところでした。
今日は賢崇寺さんには寄らずに先を急ぎます。

この写真が大黒坂・・・坂の途中に大黒天を祀る大法寺というお寺がありました。その先を右(北)折すると・・・六本木方向から麻布十番に来た時に見えていた暗闇坂です。結構長くて細い坂でした。(地図参照してください。)

このように細く延々と続く暗闇坂!! でも今更、拡張工事はとても不可能でしょうね。その右手には・・・

オーストリア大使館大使館がありました。さてさて、暗闇坂ももうすぐ終わり、信号で先程通った麻布十番商店街の道にぶつかります。マッスグ行けば六本木に戻る訳ですが、ここは左(西)折し、元麻布の高台の下をぐるりと廻る道に出てきました。ご覧下さい!!この絶壁!!

この上には都立六本木高校があります。この道も狭いですよね。少し行くと、道の右側は六本木ヒルズ・レジデンス棟という、いわゆるセレブな方々がお住まいのマンション群がございます。って敬語使う必要ないんですが・・・その近くの公園には・・・

金髪の子供達が歓声あげて遊んでおりました。その姿を眺める若き親達やフィリピン系のメイド達の姿に、ここは占領されているのだろうかと軽い眩暈を覚えました。(冗談ですが・・・ 地図の青丸がその公園の場所です。)だいだい、こんな原色の遊具のある公園なんて、そこいらにはありませんやね。
さあさあ、間もなく目的地です。
道はテレ朝通り(と手元の地図にはありますが、名称は変更になっているかもしれませんので、あしからず!! まあ、そのテレ朝通り)に突き当たり、スグのところに一向山専称寺があります。ここが麻布一ノ橋につぐ目的地でした。

このお寺に新選組沖田総司が眠っているのである。本堂の裏手の墓地に赤い屋根に守られた小さなお墓があった。墓地は立入禁止になっていて、低い塀越しにお参りすることが出来るようになっている。
沖田総司は1842(天保13)年に奥州白河藩士友部時右衛門組下足軽沖田勝次郎の長男としてこのお寺の近くにあった白河藩下屋敷に生まれたという。9歳で天然理心流に入門し、12歳の時には「奥州白河藩の指南役と立会いをして勝った」と沖田家に伝えられており、剣の腕前は相当なものであったようだ。22歳の1963(文久3)年、先程登場した清河八郎の画策による浪士組に天然理心流をあげて参加し、ご存知の通り新選組の若き幹部として京都で活躍・・・肺結核に倒れ江戸に戻ってくるも1868(慶応4)年に27歳で没したのだった。
病魔に倒れずとも、同年に近藤勇は斬首され、その翌年には土方歳三箱館の地で戦死しており中々に長生きはむずかしかったように思える。
沖田総司の人気が出てきたのは司馬遼太郎の「燃えよ剣」と「新選組血風録」以来のことである。

さてさて、
ここから、大江戸線六本木駅まで戻って帰りました。地図を見ると・・・丁度8の字を描いて歩いていたんですね。(笑)







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