著「ライシャワーの昭和史」


ライシャワーの昭和史

ライシャワーの昭和史

久々に歯ごたえのある、大著を読みきりました。著者はライシャワーの教え子であり、ライシャワーが駐日大使時代に仕えた人物です。まさにエドウィン・O・ライシャワーの伝記を執筆するには「もってこい」の人物です。
ライシャワーは1910年−そう今年は彼の生誕100年でもあるんです!!−に東京に生まれました。父オーガスト・カール・ライシャワーオーストリア系移民の子で宣教師として来日し、明治学院大学に勤めていました。エドウィンはその明治学院大学構内の宣教師館で生まれたのです。父は西荻にある東京女子大学創設に関わったり、エドウィンの妹フェリシアが聾唖者だっとこともあり、日本聾唖学校を創設した教育者でもありました。
エドウィンはそうした父の宣教師的側面と教育者的側面に加えて、父が取り組んでいた日本研究を受け継いでいったのでした。
慈覚大師円仁の中国旅行記の研究で認められ、日本から中国・朝鮮に及ぶ東アジア学を確立、戦中には暗号解読などに協力すると共に、戦後の日本占領政策を提案していきます。
ハーバード大学教授となり、多くの東アジア学、日本学の弟子達を育てていきました。最近のトヨタ問題で少し登場したロックフェラー4世上院議員や、オバマ政権のティモシー・F・ガイトナー財務長官もその系列にあるとのことです。
そして、何よりもケネディ政権で駐日大使に任命されて歴史上日本国民にもっとも愛された大使となったのです。
しかしながら
ケネディに続いてジョンソン大統領時代にも引き続き大使にいた事で、彼はベトナム北爆を擁護する立場となり、体制派と見なされ弟子達から攻撃を受けることになりました。
また、日本人の青年に刺され、輸血からC型肝炎となってしまうのです。
そういった意味で駐日大使を退任後のライシャワーには毀誉褒貶がつきまといました。

私はNHKで1982年に放映された「ライシャワー 日本への自叙伝」で彼のファンとなり、また彼が提唱する「日本の民主主義は大正時代に根付いたものであり、昭和に入り軍部に蹂躙されたものの復活したのだ。決してアメリカが教え込んだものではない。」という考え方に感銘を受け、影響されました。

この本では、老境に入ったライシャワーの気持ちが彼の言葉で綴られていて印象的でした。
「私の命の小さな滴(しずく)は、しかるべきところに落ちて、長く、ときには荒々しく、ときには穏やかな流れをつくってきたが、つねに世界の出来事の大きな流れのなかにあった。その過程は最初から最後まで興味深く、歩む甲斐のあるものであった。いま河口に近づくにつれて、流れはゆるやかになり、仏教でいうように、無窮の大海に合一する瞬間(とき)に備えている。(後略)」
なんとも、日本的な文章ではないですか。志賀直哉の最晩年のエッセイ「ナイルの河の一滴」を思い起こしました。
そしてこう結ばれてこの大著は終わります。
ライシャワーは『月の裏側』に自分の愛した国とその国民の本当の性格を見いだしているアメリカ人がますます増えているという事実こそ、自分の最大の遺産だと満足するに違いない。それで十分だろう。