安堂寺橋から松屋町筋くだって高津さんへ


地下鉄御堂筋線心斎橋駅で鶴見緑地線に乗り換えて松屋町駅で下車。


5番出口を出ますと、長堀通りの北側に出ました。この長堀通りを西へ真っ直ぐ行くとこの間散歩した玉造に出ます。この通りの南側にはビルが並んでいますが、古い商家も残っていますね。

昔は左の写真のように石垣の上にのっている家々が並んでいたんでしょうなあ…。なかなか壮観やったんやないかと想像致します。
しかしながら、この長堀通りは傾斜がございまして、首を坂の上側すなわち東手に振りますと・・・
こんな具合に石垣なしで古い家が連なっておりました。
今回はこの通りからスグに北へと左折しました。長堀通りの向こう側に石垣があるように、こちら側の歩道からの道は石段で登るようになっていました。地図を見ていて石段があることはわかっていましたが、こんなに味がある所とは!!


石段の途中に小さな石碑がありました。ああ、何かで読んだ事がある直木三十五の文学碑です。
代表作「南国太平記」の一節が書かれてありました。確かこの近くが生誕の地なんですね。今となっては直木賞にのみ名を残す作家ですなあ・・・

石段の一番上にあったのは榎木大明神で、昔はお伊勢参りや熊野詣での起点に近く目印であったり、戦災の際にはこの樹が火災を防ぎ止めて東側一帯が延焼を免れたんだそうですよ。

この階段を上ってから左折すると、道はなだらかな下り坂となりました。
松屋町筋の先の高速が見えていますが、その下が安堂寺橋です。

安堂寺橋

この橋はいくつもの上方落語に登場します。
「東の旅 発端」ではお伊勢参りの起点として出てきますし、「饅頭こわい」では親っさんがこの近くの農人橋で身投げしようとする娘を助けようとしたものの言う事を聞かん。勝手にせえ、と歩き出したら後ろでドボンと水の音がして「しもたっ!!」と思うも後悔先に立たず…「えらいことしてもうた」と道を急いでいると、後ろの方からジトジトスタスタとついてくる足跡、なんじゃいなと見てみると全身ズブ濡れになった先程の娘やないかいな!! 親っさんが娘を捕まえて「おのれで死のうと思ったもんを助けてやらなんだから恨んで出たか!!
もう一度川へ落としたるワイ!!」とこの安堂寺橋でもみ合って、親っさんが川にドブンッと落ちてしまった!?
高速の高架下で暗いですが、そこそこの広さもありますなあ・・・
横堀川沿いに進んで一つ目を左折、先程からアホのひとつ覚えのように左折ばかりしてますが・・・
このあたりから末吉橋の向こうあたりが「住吉の浜」と申しまして東横堀川沿いに住友さんのお屋敷などがあって、昼日中も人通りの少ないさびしいところやったそうでございます。ここは「次の御用日」「佐々木裁き」という奉行物の上方落語の舞台になっております。
安堂寺橋から末吉橋あたりは・・・今は福山通運の浜になっていました。実際には末吉橋より南が「住吉の浜」で、驚いたことには今でも三井住友銀行のビルが並んでます。またの機会にその「住吉の浜」にも行きたいものですが、そこまで行かなくてもお盆の夕方とはいえ人通りの少ない寂しいところであることには変わりありませんな。
ここを又もや左折すると末吉橋・・・昭和2年造という昭和モダニズム大大阪時代」を感じさせるユニークなデザインであります。

ここから松屋町筋を南へ・・・ 今回の散歩で初めての右折です。松屋町の南は瓦屋町、しばらく進むと2丁目の歩道上に小さな石碑がございました。

「贈正五位大利鼎吉遭難之地」
ここが新組組による「ぜんざい屋事件」の跡なんですね。
土佐勤王党の一味が大坂に火を放ち、その混乱に乗じて大坂城を乗っ取ろうという計画を企てているとの情報が新選組谷三十郎・万太郎兄弟等の耳に入り慶応元年正月8日に根城の南瓦町にあったぜんざい屋を急襲、大利鼎吉を殺害した事件です。
この碑の裏側には大利が襲われる前日に読んだ歌がありました。

ちりよりもかろき身なれど大君にこころばかりはけふの報なり

この事件の後、大坂にも新選組の屯所がおかれることになります。屯所のおかれた万福寺はもう少し南にあります。


高津神社

ここから少し南東に進むと高津神社、通称「高津(こうづ)さん」があります。今日は神社の左側からのアプローチです。なだらかな階段というのは美しいもんですね。
 

ここはカタカナのハの字のように2つの石段が境内で出会うようになっているのです。それで・・
相合坂(縁結びの坂)と呼ばれているんですね。男女が同時に上りだして、頂点でピタリと出会えば相性がいいんだそうです。面白いですね♪
そうそう、その横の石柱見てくださいよ!! 住友吉左衛門ですよ!!
 

本殿に参詣した頃にはもう夕暮れが迫ってきていました。ここを舞台とした上方落語は「高津の富」に「崇徳院」が有名ですね。
昔はここから難波の海が眺められたのでしょう。古墳時代には仁徳天皇がここから民の夕餉の煙を眺めていたという伝説もあります。「崇徳院」の若旦那が娘さんに一目ぼれして寝込んでしまうことになる茶店もこの辺りにあったんでしょうね。境内には先年亡くなられた桂文枝師匠の顕彰碑がございました。

5代目文枝師匠の最後の高座がここ高津さんでの「高津の富」だったんですね。碑文は3代目春団治師匠が揮毫されています。
南に伸びる正面の長い石段を降りていきました。


そこから地下鉄谷町九丁目駅まで歩き、池田へと戻りました。

石橋で「ちりとてちん」に引っ掛かりまして、思わぬ深酒となってしまったのでした・・・。